My役所ライフ

役所生活30数年のエピソードを通じて、役所でのちょっとした仕事のコツや活き活きと働くヒントを紹介します!

嫌われる勇気

 「嫌われる勇気」というアドラー心理学の本がベストセラーになったけど、嫌われる勇気っていう言葉が結構、気にいっている。

自分が悩んでいたことを振り返ると、ある失敗が原因であったにせよ、結局は、それによって人がどう自分を思っているかに帰結するんじゃないか。

 

 よく怒鳴る上司が結構いた。手を抜いている奴はもちろん、自分の考えと異なる方向に進める奴まで、容赦なく怒鳴る。

 「あかんと思ったら、怒鳴らなあかん。そうせんと、次からもピリッとしよらん」

 

 一方、一生懸命やっているからと何も言わらない上司もいた。そのクセ、後から、「あのまま、放っておいていいやろか」と僕に言う。

 「それなら、止めた方がいいのではないですか」

 「そんなこと言って嫌われるのは、いややんか」

 結局、僕が話しにいくこととなったのだけれど(僕は嫌われてもいいのだろうか、、、)。

 

 何かをしたとき、判断したとき、周りとのあつれきはつきもの。

できるだけ相手に迷惑をかけたり、相手の体面を壊したりしないように気遣うけれど、ちょっとのことを言い忘れてたり、それをしても、もめることもある。結局は、勝手に決めてとか、自分のテリトリーにずけずけと入ってとか、自分だけいい恰好をしやがってということで、悪口を言われる。

 

 たいして実害もかけず相手に迷惑もかけていないのに、相手が腹を立てたということで、なぜ、自分が反省し傷つかないといけないのか。自分がしたいことをしようとするなら、そんなことを気にするな。それが嫌われる勇気ということのようです。

 

 前にも、書いたけれど、地域で活躍されているある女性は、何かするたびに、周りから、嫉妬され、悪口を叩かれるという。出る杭は打たれるということだけど、その女性は、「悪口を誰かに言われるたびに、あれだけ頑張っているのだから、応援しようと言ってくれる人も出てくるから、悪口なんか、ぜんぜん平気、むしろ、応援団を増やしてくれて、ありがとうと思うの」と。

 

 こんなに強くなれたらいいな。その人は本当に献身的に働いている。僕もその女性のファンです。

「直せる失敗なんか気にするな」親父の一言

 結婚する前、実家から役所にかよっていた新人のころ、残業して遅く帰ると、居間でくつろいでいる親父と話すことが多くなった。

 父は僕が就職したと同時に早期退職をしたところで、第2の職場に移ったものの、まだまだ現役みたいなときだったなあ。

 

 大学時代には、どの若者も思うように、親父の話は狡猾な大人の世渡り方法みたいで正直うっとうしかったのだけれど、家に帰って、おふくろの作ったご飯でビールを飲みながら、今日はこんなこと失敗したとか、これまでなら絶対言わないようなことが口からでて、親父に話していたのだった。

 

 昨年の資料を修正して使ったところ、「たくさんの部長が出席する会議の資料で、日付を間違って書いてしまってたんや」とビールを飲みながら僕。

 プロ野球速報を見ながら、「なんや、そんなん、日時が間違っていました、このように資料の修正してくださいと言えばしまいやないか」と親父。

 

 そりゃそうかもしれんけど、間違ったら恥ずかしいし、あかんやろうと思うところに、「失敗しないに、こしたことはないけど、そんな失敗これからいくらでもあるで。修正したら済む失敗なんか失敗のうちに入らんで、そのために上司もおるんやからな」と、また親父。

 

 今でもこんな会話を覚えているのだから、それで救われたのだ、なんてこともないのに。

 

 それから、もう一つ、今も大切にしている親父が言っていたこと。

「わからないときは、上の人に聞くことや。向こうの方が経験も多いし情報も多い。とはいえ、身構えると相談もしにくいし、相手も簡単には教えてくれないから、一緒にご飯を食べにいったときとか気楽なときに相談するようにしてみ」

 上司の部屋をノックして相談にも行きにくいから、そういうことかと思って、そうしていたのだけど、最近、この意味するところが解る(その話は別の機会に)。

 

 その親父が早期退職をした歳に自分もなった。

 親父は、その間、数度のがんの手術をしたものの、まったく元気で、ゴルフや旅行、そして、頼まれ仕事も楽しそうにこなしている。

 今たまに聞く親父の話は、大好きな童話を聞く子どものような気持ちで受け入れている。

 そして、このブログは僕の子供たちにとっての童話になるのだろうか。

管理職に「やってられない」は禁句

「やってられへんなあ」、思わず口からでた。

すかさず

「それを課長が言ってはダメ!みんな不安に思ってるけど、課長が大丈夫なふりをしているから、やってやろうと思ってるんですから」と係長。

 

 公的マンションを販売する仕事をしていたときのこと。バブル崩壊以降、販売しても売れず。毎年、市場価格は下がり続け、築後何年かの住宅が大量に売れ残り。

 ついに在庫住宅を値下げ販売しようと、高い価格で購入した住民の方々との交渉のさなか、その住民代表の方からの電話を切ったときのことでした。

 住民の方からすれば、自分の購入した価格を大きく割り込んで売られることに納得できない、当たり前のこと。管理組合と話し合いを続け、一歩前進したかと思うと二歩後退、出口が見えない状態が続いていました。部下も僕も、多くの休日の夜がつぶれました。

 

「ああ、ごめん、ごめん。ちょっと腹立っただけ。大丈夫、大丈夫」と取り繕いましたが、ああ、そうやった、そうやった、しんどい時こそ、どんと構えて笑っとかないと。部下こそ、やってられないわなあと、肝に銘じたのでした。

 

 これが管理職になったときの最初の教訓。いまも第一にしています。

 

 ちなみに、管理職の憂さはどう晴らすのか。日々、酒でごまかしても、自分の気持ちをどう前向きに保つのか。諸先輩の励ましもあり、そう言われれば自分の意地もでますが、そのとき肩の力が抜けたのは単なる偶然。

 

 2001年、しし座流星群。嫁、幼子達とともに、深夜、一生分の流れ星をみることができました。

 家族一同、これだけ星に願いができて、うまくいかなかったら、それも天命、しょうがないなあと。

 

 

 

部下は怒るか褒めるか

 巷に出版されている人材育成本のほとんどは、部下は褒めて育成しよう。

 顧みると、褒められたことが自分の財産になっているだろうか。

 褒められることは確かに気分がいい。でも、何に褒められたか、褒められたことで、これから、それを教訓にしようと、その言葉を思えていることはない、これが。

 とはいえ、褒められたら頑張ろうと思う。頑張った。そのモチベーションが自分を育てたと言えば、その通り。

 

 一方、怒られた時は、どうだろうか。実に覚えている、これが。

「おまえは何もわかってないくせに、勝手にそんなことしやがって」とか、「あいつが君は偏った奴としか付き合ってないと言っているから気をつけろ」とか。「お前がそんな自分本位なら、もう話はしない」と言われたこともある。

 

 とはいえ、時間が過ぎると、結局、怒られたのは、その人間が自分の感情を納めるためであったり、怒ることで僕を思い通りに誘導したかったりしているだけじゃあと自分なりに結論づけがち。本当にそうかもしれないし、そう考えることで自分を守っているのかもしれないけれど。

 いずれも、そういう怒られかたでは何も残っていない。じゃあ、部下のすることに何か言うべきと思う時はどうするのか。

 失敗した時、延々と諭してくれた上司、「こんなしょうもない失敗をわざわざ気が付いて大げさにいうやつがバカや」と言って、黙って周りに誤りに行ってくれた上司、「ごめん、ごめんなあ、迷惑かけて」と泣き続けた上司、何も言わずに飲みに連れて行ってくれた上司。

 

 いろいろな人に本当に迷惑をかけ、本当にいろいろな形で教えてもらった。

 

 でも、その共通していることは、すべては僕のためと思って話してくれたのではないか。少なくとも、その一つ一つ、僕は厳しい言葉で怒られても、うれしく思っているし、言葉で伝えてもらってなくとも「これからはこうしよう」と心に刻んでいる。

 

 (書きすぎだけど、これからの管理職の皆さんには、相手のことを本当に思ってさえいれば、ためらわず自分のスタイルでぶつかったらいいと思いますよ)

公務員のマイナスの思考

 

 

 皆さんは、売れる商品をもっと売ろうとするのか、売れ行きが悪い商品をなんとか売ろうとするのか、どちらに力を入れますか。

 自分が店をやっていれば、売れる商品は、もっと仕入れて、もっと売るし、売れない商品は、仕入れをやめるのではないでしょうか。

 

 ところが、売れない商品をなんとかしようとするのと同じように、役所の仕事は、問題に対応するのがミッションである場合が実に多いです。何らかの事情で貧困に陥ってしまった人の生活を守り、再び自立してもらおうとするセーフティネットの分野はまさにそうです。また、行財政改革もマイナスを減らしていこうとすることです。産業振興という前向き分野でも不況業種をどうするのかといった問題があります。

 

 むしろ役所の存在意義でもある訳ですが、この思考パターンをすべての分野に当てはめると、予期せぬ問題も生じる。 

都市振興や観光集客などの分野で、人気のある商品を売ろうとせず、人気はないけれども、自分たちの思い入れだけで、プロモーションをうまくすれば売れるかもといった行動です。

 これは、株や為替でいうところの逆バリみたいなもの。順張りという世間の行動と異なることは、むしろリスクが伴い、マイナスに着目した結果、公務員が最も忌むマイナスを増やすことになりかねません。

 

 民間の方と一緒に話し、仕事をしていると、実に多様な価値観があり、判断があるなあと思います。

 僕自身の自戒としては、何十年と染みついたマイナスに目を向けがちな公務員の思考回路を今更、否定しようがないし、かといって、絶対、それに縛られないようにしよう。

 多様な価値観の1つに思い、そんな民間の人達の価値観の中でもまれて行くことで、答えを見つけていければいいのではないかと思います。

人が育つのは721

 ある経営学の先生から教えられたのですが、人が育つ要因は、7(経験):2(訓示):1(研修や自己啓発)と言われているそうです。

 

 経験とは、ちょっと困難なことを任されて、それをやり遂げたときに一皮むけるという状態。自分を振り返ると、確かにそうした経験がありました。

 成功への努力のプロセスが、それ以後のハードルにも応用していけるということはもちろん、思わずガッツポーズしてしまう結末を通じて、頑張ることのおもしろさを知ることも大きいのではないかと思います。そして、ある経験は新たな経験に導いてくれます。

 

 訓示とは、尊敬できる上司や師から教えられる言葉。このブログで紹介している諸先輩の言葉もそうだと思います。ちなみに、「この上司は、説教ばかりでうっとうしいなあ」と思うだけなら、それは前提となる「尊敬できる」が抜けているから。上司は、その前提を忘れてはいけませんが。

 

 最後の研修や自己啓発は、いわゆる座学というものです。リーダーシップやプラニング、プロジェクト具体化などが重視される昨今、職員研修に予算を割いている割には、この原則ではその効果は、1だそうです。

確かに、よく言われることですが、この講師は素晴らしかったなあと思うだけでは、音楽会に行って感動したといっているのと同じ、リフレッシュ効果しかありません。したがって、最近の研修では、疑似体験を重視したアクションラーニングが盛んになっています。(なお、スキルや知識習得の研修は、この原則とは違います)

 

 721の人材育成の原則は、経験的にも納得するものです。

 ところが、自分たちが自己成長のために何をしているかというと、ひとつ上の仕事に積極的に挑戦したり、この人という上司や先輩から仕事の心構えや経験を自分から教えてもらったりということになっているでしょうか。

 色々な研修に参加したり、あるいは、啓発本を必死でたくさん読んだりすることに時間を割いているのではないでしょうか。(僕自身も、本が山積みになった状態になんか満足しつつ、何が書いてあったかほとんど覚えていない)

 もちろん、組織がそういう姿勢で人材を育てているかどうかが最も大事なのです。

 

中間管理職の見る景色

 部下がこうしたいという意見をできるだけ尊重したいのが上司の人情。一方、いつも上ばかりみている人もいる。

 

 変な上司がいた。それでいいよって、応援してくれていると思ったら、都合が悪くなる場面になると、くるっと向きを変えて、「それは間違いや。やり方を変えよう」。部下にしたら、心底がっくりする。

 

 ある時、僕自身、部下から執拗にこうしなければなりませんと説明を受け、やや納得しないまま、例の上司に説明し、その上司も通り、トップへ説明にいったことがある。

 トップは、「それはちがうやろ」と一蹴。例の上司も「そうですよね」と手のひらを返す。僕はといえば、部下の手前、何か反論しなければと思ったが、トップのいうことの方が尤もだ。部下を見ると、自分が未熟でした、考えが至りませんでしたとしゅんとしている。

 

 その部下の姿を見たとき、部下と同じ視点で見ていたのが、トップからの視点で見ると景色が違うものだと気付いた。そして、「すいませんでした、もう少し考えます」と引き下がった。例の上司は、その時、部下に固執しないことで両方の景色を見ていたのだ。

 この経験があってから、間違っているなら、自分に固執するだけでなく、時には回れ右して立場を逆にして見てみることも、大事だなあと思うようになった。

 

 中間管理職の仕事は、綱引きの真ん中にいるみたいなもの。上司の目線は大きな目線、一方、部下の目線は現場の目線。どっちを尊重すべきか、引っ張り合う中で、均衡する場所が見つかる。だから、中間管理職は、部下をかばうだけでは正しい答えは見つからない、時には上司の側から綱を引っ張りことも大事。どっちにしろ、同じチーム、最後は同じ方向に綱を引く。トップの前で手のひらを返さなければならない前に、できるだけ、早い段階で、部下とは、しっかり引っ張り合おう。

 もっとも、将来どっちの方向に自分が向くのか、その判断に部下も引き連れて行く以上、部下を守る覚悟がないといけないのだろう。