My役所ライフ

役所生活30数年のエピソードを通じて、役所でのちょっとした仕事のコツや活き活きと働くヒントを紹介します!

人が育つのは721

 ある経営学の先生から教えられたのですが、人が育つ要因は、7(経験):2(訓示):1(研修や自己啓発)と言われているそうです。

 

 経験とは、ちょっと困難なことを任されて、それをやり遂げたときに一皮むけるという状態。自分を振り返ると、確かにそうした経験がありました。

 成功への努力のプロセスが、それ以後のハードルにも応用していけるということはもちろん、思わずガッツポーズしてしまう結末を通じて、頑張ることのおもしろさを知ることも大きいのではないかと思います。そして、ある経験は新たな経験に導いてくれます。

 

 訓示とは、尊敬できる上司や師から教えられる言葉。このブログで紹介している諸先輩の言葉もそうだと思います。ちなみに、「この上司は、説教ばかりでうっとうしいなあ」と思うだけなら、それは前提となる「尊敬できる」が抜けているから。上司は、その前提を忘れてはいけませんが。

 

 最後の研修や自己啓発は、いわゆる座学というものです。リーダーシップやプラニング、プロジェクト具体化などが重視される昨今、職員研修に予算を割いている割には、この原則ではその効果は、1だそうです。

確かに、よく言われることですが、この講師は素晴らしかったなあと思うだけでは、音楽会に行って感動したといっているのと同じ、リフレッシュ効果しかありません。したがって、最近の研修では、疑似体験を重視したアクションラーニングが盛んになっています。(なお、スキルや知識習得の研修は、この原則とは違います)

 

 721の人材育成の原則は、経験的にも納得するものです。

 ところが、自分たちが自己成長のために何をしているかというと、ひとつ上の仕事に積極的に挑戦したり、この人という上司や先輩から仕事の心構えや経験を自分から教えてもらったりということになっているでしょうか。

 色々な研修に参加したり、あるいは、啓発本を必死でたくさん読んだりすることに時間を割いているのではないでしょうか。(僕自身も、本が山積みになった状態になんか満足しつつ、何が書いてあったかほとんど覚えていない)

 もちろん、組織がそういう姿勢で人材を育てているかどうかが最も大事なのです。

 

中間管理職の見る景色

 部下がこうしたいという意見をできるだけ尊重したいのが上司の人情。一方、いつも上ばかりみている人もいる。

 

 変な上司がいた。それでいいよって、応援してくれていると思ったら、都合が悪くなる場面になると、くるっと向きを変えて、「それは間違いや。やり方を変えよう」。部下にしたら、心底がっくりする。

 

 ある時、僕自身、部下から執拗にこうしなければなりませんと説明を受け、やや納得しないまま、例の上司に説明し、その上司も通り、トップへ説明にいったことがある。

 トップは、「それはちがうやろ」と一蹴。例の上司も「そうですよね」と手のひらを返す。僕はといえば、部下の手前、何か反論しなければと思ったが、トップのいうことの方が尤もだ。部下を見ると、自分が未熟でした、考えが至りませんでしたとしゅんとしている。

 

 その部下の姿を見たとき、部下と同じ視点で見ていたのが、トップからの視点で見ると景色が違うものだと気付いた。そして、「すいませんでした、もう少し考えます」と引き下がった。例の上司は、その時、部下に固執しないことで両方の景色を見ていたのだ。

 この経験があってから、間違っているなら、自分に固執するだけでなく、時には回れ右して立場を逆にして見てみることも、大事だなあと思うようになった。

 

 中間管理職の仕事は、綱引きの真ん中にいるみたいなもの。上司の目線は大きな目線、一方、部下の目線は現場の目線。どっちを尊重すべきか、引っ張り合う中で、均衡する場所が見つかる。だから、中間管理職は、部下をかばうだけでは正しい答えは見つからない、時には上司の側から綱を引っ張りことも大事。どっちにしろ、同じチーム、最後は同じ方向に綱を引く。トップの前で手のひらを返さなければならない前に、できるだけ、早い段階で、部下とは、しっかり引っ張り合おう。

 もっとも、将来どっちの方向に自分が向くのか、その判断に部下も引き連れて行く以上、部下を守る覚悟がないといけないのだろう。

 

 

意識の壁

 財政危機により行税制改革を、組織を挙げてしなければならなかった時、当時のトップが上杉鷹山を引き合いにだして話をしたことがありました。

 

 上杉鷹山は、改革を妨げる3つの壁があるといっています。物理的な壁、制度・法律の壁、そして、意識の壁です。

 物理的な壁は、ベルリンのような壁です。これはがんばればつぶせます。また制度・法律の壁も改正すれば可能です。

 でも、最もやっかいなのは、3つめの意識の壁だというのです。従来、できないもの、してはいけないものと決めつけている個人の意識であり、組織風土です。

 過去にとらわれずゼロベースで考えて、取り組もうと言われました。

 

 その後、有名なたとえ話で、水槽にいれられたカマスの話を知りました。水槽に、透明のしきりをいれて、一方にカマス、もう一方に餌をいれます。

カマスは、餌をとろうとしますが、透明のしきりにぶつかります。何度も何度もぶつかります。

 そのうち、カマスは、しきりがあることを学習して、もう餌をとろうとはしません。そうしたら、そのしきりをはずして、あらためて餌を同じところに置いても、カマスは、しきりがあるものと思って、餌もとらず、じっとしたままでいる!というものです。

 

 部下の打ち合わせを聞いていたり、外部への説明を聞いていたりすると、実は、物理的な支障もなく法的にも問題はないのに、前例にこだわり、できないと結論づけているケースがある気がします。

 

 その時に意識の壁を思わずにはおれないのですが、部下にすれば前例を盾に断ることが仕事を増やさないから楽という面はあるものの、その一番の原因は、管理職達が、日常的に、もしもの最悪を全部つぶすようなネガティブ議論をしかけ、石橋を叩いてつぶす組織風土を作っているからではないかと思ったりします。

 

 ところで新しい組織の管理職になり、このことを一番自戒して、「やったらいいやん、やれやれ!」と部下と接している訳ですが、「現場の苦労も知らんと好き勝手言わないで」と部下の顔をいがませてしまうこともあるのですね、これが(苦笑)

謝るということ

 先日、ある外国から来た人と世間話をしていた時のこと。

「謝罪する時は、許してほしいと思って謝っても、決してうまくいかないですよ。謝罪する側は加害者なのに、被害者に一刻も早く許してもらいたい、自分が救われたいなんて都合が良すぎますよね」

 

 でも、時間を戻すことなんてできないし、どうすれば?

 

 「息子が騙され精神的にも大きく傷つけられたことがありました。責任者が誤りに来ました。その人に『あなたの子どもがそんなことをされたら、どう思いますか。謝られて、わかりましたと言えますか』と問いました。

 「その責任者は『私だったら、決して許せません』と言ったのです。その言葉を聞いて、私は、この人と一緒に善後策を考えようと思いました」

 

 仕事をしていると失敗することはある。それを早く治癒したいのはやまやまだ。でも、相手の気持ちが少しでも治まるために謝るのであれば、むしろ時間をかけて、相手の痛みに寄り添うことが必要なのではないか。

 

 組織として謝罪する、あるいは謝罪してはいけないといわれることはあるけれど、社会常識として、人として、自分だったらどう思い、謝罪するのかしないのか。仕事をしていて悩む場面がある。

 まして、公務員の無謬(むびゆう)性について、常に正しいことをしようとすることと結果を何としても正当化しようとすることは決定的に違うのに、いつのまにか混合した運用になっていないか。

 

 そんな時に、この人の言葉を思い出そうと思った。

管理職の一言

 「管理職は、その一言が部下を助けたり、深く傷つけたりすることがあるんやで」と教えられたのも酒の席だった。

 「管理職は、多くの担当者のうちの一人と思っても、相手にとって上司は一人や」。

 

  課長の頃、ある事務所の担当者から、「うちの所長は、自分のいうことをひとつも聞いてくれない。一方的に命令ばかりして職場にいるのもしんどくてしょうがない」という相談を受けた。

  メンタルが心配で、何度か彼と話し、その上司にも事情を聴いたが、どちらも自分の仕事に思いが強く、率直に、そりが全く合わないという状態だった。

  その担当者と飲んだ時、勢いで「そんな嫌いな上司のことで悩むだけ損。あの上司は後1年ちょっとで定年退職。もうちょっとや、もうちょっとやと思って腹で思ってといたらいい」という趣旨のことを言った(ようだ)。

後から、その担当者から、あの一言で救われたと泣かれたことがあった(どこが琴線に触れたのだろう。真面目に向き合うことが大事なんだろうな)。

 

 また、家族関係がややこしかった担当者がチカン行為をした時のこと。上司から怒られる以上に励まされたことで、「こんな上司に迷惑をかけたらいかん、二度とすまい」と言う言葉も聞いた。

 

 逆に、ある事務所長が真冬、現場視察に行った時のこと、「うわっ、寒い!早くクルマに戻ろ」と言ったという。

 それを聞いて、現場で作業している職員は、ここにずっと作業している俺らを何と思とるんや!今後こんな奴のいうことなんか絶対聞いてやらん」

 その後、その事務所では、事あるごとにもめたのだった。事務所長はまったく理由がわかず、「あいつらは文句ばっかりいいやがって」と収拾がつかなかった。

 上司たる者、その場のノリで軽はずみなことだけは言うまい。

犬棒ライフのすすめ

 とある卒業祝賀会の祝辞です。

 

 これから社会に巣立つ皆さんは、大志を抱き、さあ頑張るぞと意気込んでいるに違いありません。

 でも、長丁場、ずっと、頑張り続けることなんか、できません。だからといって、社会がなんたるかもわかっていないあなたが取捨選択して、あるべき論の成長プランを作ったところで的が外れていること間違いありません。それは、見えない壁を作り、自分の可能性を壁の中に拘束することにもなります。

 

 ひとつ、お勧めする生き方があります。犬棒ライフです。

犬も歩けば棒にあたるように、人も歩けば人にあたる。物事にもぶつかる。叩かれたり、トラブルになったりすることもあります。

 でも、人に当たれば縁ができます。物事にぶつかれば経験になります。偶然に身を任せることで、自分の価値前提では絶対得られない、人や物事とも出会い、気が付けば人脈、知恵やノウハウになっています。

 

 もちろん、本当に悪い人やリスクの大きい物事は避けるべきですが、危険がありそうだとわかれば、避けようとするし、転んでも手をつくものです。

 そして、親はいつだって親であり、最強の応援団として助けるでしょう。

 歩く前から転ぶ心配はしないことです。

 

 だから、いろいろなところをふらふらドリフトして隙のある生き方をしましょう。そして棒にあたりましょう。

 その偶然の機会を大切に、そして楽しみましょう。

 

 

―  次男がこのたび大学を卒業 ―

社会人として独り立ちするにあたり、どんな励ましの言葉を贈ったらいいのでしょうか

皆さんは、卒業する自分の子どもにどんな言葉を贈りますか。

決裁を見る大切さ

 

 

 局長さんなど偉い人に決裁(稟議書)をもらいに行くのはドキドキするものだ。そして、ご苦労さんなどといわれると、ほっとして、ちょっと達成感を感じる。

 

 新人の頃、一件あたり数千万円の支出決裁をいくつか持って局長室に行った時のこと。

「○○の件で、ご決裁をいただきに参りました」

「ああ○○か。ご苦労さん。済まんが、この印鑑使って、そこのテーブルで押して」

「ご覧にならなくていいのですか」と思わず問いなおしたところ、

「きちんとやってくれてるんやろ。俺はみてもわからんから」

 邪魔くさがられている訳ではなく、親分が子分に任せたという感じで、その時は「かっこいい!」と思った。

 

 一方、その後に仕えた局長は、決裁を見たとたん、赤鉛筆を持ち出して、「この文章は、ここで句点を打った方がいいですね。ここは主語をきちんと書かないと分かりにくいです。それから、ここは時制の一致に気を付けて過去形にしましょう」などと、説明しながら、決裁文を修正していく。

「はい、今度から気を付けてください」と返された決裁は、びっしり赤鉛筆で添削された、まるで通信教育の教材のようになっているのだった。

 これはへこんだ。でも、無傷で押印してもらえる人は少なく、その局長は、「昔、職員研修の担当だったから、今でもその仕事ぶりが抜けないのだ」と陰口をたたかれていた。

 でも、その歳に自分もなると、結構、同じことをしている。神は細部に宿るとか言いながら。

 

 それから、土日に一人で職場にでてきて、まとめて決裁をみる局長もいた。そして、おかしいと思った決裁には、週明け、順番に、所属長を呼びつけて絶対に何が気に入らないか言わず、ただ「これでいいの?」と聞く。いいと思いますといわれると、「本当に?」と繰りかえす。そのうち、その所属長は、いえ、ちょっと問題があると思いますと引き下がり、再チャレンジに挑む。

 なぜ、土日かといえば平日は飲みに行くのが仕事だから。なぜ答えを言わないのか。答えをいったら自分たちで考えなくなるから。

 

 最後の局長は、電卓と法令を必ず机に置いて、決裁に誤りがないか、丁寧にチェックする人。何もなければ静かに判を押して返す。

 局長まで行く決裁は、そんな電卓をたたくようなところが間違ったままのはずはない。決裁に時間もかかるし、手間だろうと「そのあたりのチェックは、僕らがきちんとやりますから」と言ったことがある。それに対し

 「以前、僕がいいかげんに決裁した結果、誤った決裁をそのまま実行させてしまった。事件になって、起案した担当者の人生を大きく狂わせてしまった」

 上司の決裁の仕方1つで、人も組織も、元気にもなれば、病みもする。