My役所ライフ

役所生活30数年のエピソードを通じて、役所でのちょっとした仕事のコツや活き活きと働くヒントを紹介します!

意識の壁

 財政危機により行税制改革を、組織を挙げてしなければならなかった時、当時のトップが上杉鷹山を引き合いにだして話をしたことがありました。

 

 上杉鷹山は、改革を妨げる3つの壁があるといっています。物理的な壁、制度・法律の壁、そして、意識の壁です。

 物理的な壁は、ベルリンのような壁です。これはがんばればつぶせます。また制度・法律の壁も改正すれば可能です。

 でも、最もやっかいなのは、3つめの意識の壁だというのです。従来、できないもの、してはいけないものと決めつけている個人の意識であり、組織風土です。

 過去にとらわれずゼロベースで考えて、取り組もうと言われました。

 

 その後、有名なたとえ話で、水槽にいれられたカマスの話を知りました。水槽に、透明のしきりをいれて、一方にカマス、もう一方に餌をいれます。

カマスは、餌をとろうとしますが、透明のしきりにぶつかります。何度も何度もぶつかります。

 そのうち、カマスは、しきりがあることを学習して、もう餌をとろうとはしません。そうしたら、そのしきりをはずして、あらためて餌を同じところに置いても、カマスは、しきりがあるものと思って、餌もとらず、じっとしたままでいる!というものです。

 

 部下の打ち合わせを聞いていたり、外部への説明を聞いていたりすると、実は、物理的な支障もなく法的にも問題はないのに、前例にこだわり、できないと結論づけているケースがある気がします。

 

 その時に意識の壁を思わずにはおれないのですが、部下にすれば前例を盾に断ることが仕事を増やさないから楽という面はあるものの、その一番の原因は、管理職達が、日常的に、もしもの最悪を全部つぶすようなネガティブ議論をしかけ、石橋を叩いてつぶす組織風土を作っているからではないかと思ったりします。

 

 ところで新しい組織の管理職になり、このことを一番自戒して、「やったらいいやん、やれやれ!」と部下と接している訳ですが、「現場の苦労も知らんと好き勝手言わないで」と部下の顔をいがませてしまうこともあるのですね、これが(苦笑)

謝るということ

 先日、ある外国から来た人と世間話をしていた時のこと。

「謝罪する時は、許してほしいと思って謝っても、決してうまくいかないですよ。謝罪する側は加害者なのに、被害者に一刻も早く許してもらいたい、自分が救われたいなんて都合が良すぎますよね」

 

 でも、時間を戻すことなんてできないし、どうすれば?

 

 「息子が騙され精神的にも大きく傷つけられたことがありました。責任者が誤りに来ました。その人に『あなたの子どもがそんなことをされたら、どう思いますか。謝られて、わかりましたと言えますか』と問いました。

 「その責任者は『私だったら、決して許せません』と言ったのです。その言葉を聞いて、私は、この人と一緒に善後策を考えようと思いました」

 

 仕事をしていると失敗することはある。それを早く治癒したいのはやまやまだ。でも、相手の気持ちが少しでも治まるために謝るのであれば、むしろ時間をかけて、相手の痛みに寄り添うことが必要なのではないか。

 

 組織として謝罪する、あるいは謝罪してはいけないといわれることはあるけれど、社会常識として、人として、自分だったらどう思い、謝罪するのかしないのか。仕事をしていて悩む場面がある。

 まして、公務員の無謬(むびゆう)性について、常に正しいことをしようとすることと結果を何としても正当化しようとすることは決定的に違うのに、いつのまにか混合した運用になっていないか。

 

 そんな時に、この人の言葉を思い出そうと思った。

管理職の一言

 「管理職は、その一言が部下を助けたり、深く傷つけたりすることがあるんやで」と教えられたのも酒の席だった。

 「管理職は、多くの担当者のうちの一人と思っても、相手にとって上司は一人や」。

 

  課長の頃、ある事務所の担当者から、「うちの所長は、自分のいうことをひとつも聞いてくれない。一方的に命令ばかりして職場にいるのもしんどくてしょうがない」という相談を受けた。

  メンタルが心配で、何度か彼と話し、その上司にも事情を聴いたが、どちらも自分の仕事に思いが強く、率直に、そりが全く合わないという状態だった。

  その担当者と飲んだ時、勢いで「そんな嫌いな上司のことで悩むだけ損。あの上司は後1年ちょっとで定年退職。もうちょっとや、もうちょっとやと思って腹で思ってといたらいい」という趣旨のことを言った(ようだ)。

後から、その担当者から、あの一言で救われたと泣かれたことがあった(どこが琴線に触れたのだろう。真面目に向き合うことが大事なんだろうな)。

 

 また、家族関係がややこしかった担当者がチカン行為をした時のこと。上司から怒られる以上に励まされたことで、「こんな上司に迷惑をかけたらいかん、二度とすまい」と言う言葉も聞いた。

 

 逆に、ある事務所長が真冬、現場視察に行った時のこと、「うわっ、寒い!早くクルマに戻ろ」と言ったという。

 それを聞いて、現場で作業している職員は、ここにずっと作業している俺らを何と思とるんや!今後こんな奴のいうことなんか絶対聞いてやらん」

 その後、その事務所では、事あるごとにもめたのだった。事務所長はまったく理由がわかず、「あいつらは文句ばっかりいいやがって」と収拾がつかなかった。

 上司たる者、その場のノリで軽はずみなことだけは言うまい。

犬棒ライフのすすめ

 とある卒業祝賀会の祝辞です。

 

 これから社会に巣立つ皆さんは、大志を抱き、さあ頑張るぞと意気込んでいるに違いありません。

 でも、長丁場、ずっと、頑張り続けることなんか、できません。だからといって、社会がなんたるかもわかっていないあなたが取捨選択して、あるべき論の成長プランを作ったところで的が外れていること間違いありません。それは、見えない壁を作り、自分の可能性を壁の中に拘束することにもなります。

 

 ひとつ、お勧めする生き方があります。犬棒ライフです。

犬も歩けば棒にあたるように、人も歩けば人にあたる。物事にもぶつかる。叩かれたり、トラブルになったりすることもあります。

 でも、人に当たれば縁ができます。物事にぶつかれば経験になります。偶然に身を任せることで、自分の価値前提では絶対得られない、人や物事とも出会い、気が付けば人脈、知恵やノウハウになっています。

 

 もちろん、本当に悪い人やリスクの大きい物事は避けるべきですが、危険がありそうだとわかれば、避けようとするし、転んでも手をつくものです。

 そして、親はいつだって親であり、最強の応援団として助けるでしょう。

 歩く前から転ぶ心配はしないことです。

 

 だから、いろいろなところをふらふらドリフトして隙のある生き方をしましょう。そして棒にあたりましょう。

 その偶然の機会を大切に、そして楽しみましょう。

 

 

―  次男がこのたび大学を卒業 ―

社会人として独り立ちするにあたり、どんな励ましの言葉を贈ったらいいのでしょうか

皆さんは、卒業する自分の子どもにどんな言葉を贈りますか。

決裁を見る大切さ

 

 

 局長さんなど偉い人に決裁(稟議書)をもらいに行くのはドキドキするものだ。そして、ご苦労さんなどといわれると、ほっとして、ちょっと達成感を感じる。

 

 新人の頃、一件あたり数千万円の支出決裁をいくつか持って局長室に行った時のこと。

「○○の件で、ご決裁をいただきに参りました」

「ああ○○か。ご苦労さん。済まんが、この印鑑使って、そこのテーブルで押して」

「ご覧にならなくていいのですか」と思わず問いなおしたところ、

「きちんとやってくれてるんやろ。俺はみてもわからんから」

 邪魔くさがられている訳ではなく、親分が子分に任せたという感じで、その時は「かっこいい!」と思った。

 

 一方、その後に仕えた局長は、決裁を見たとたん、赤鉛筆を持ち出して、「この文章は、ここで句点を打った方がいいですね。ここは主語をきちんと書かないと分かりにくいです。それから、ここは時制の一致に気を付けて過去形にしましょう」などと、説明しながら、決裁文を修正していく。

「はい、今度から気を付けてください」と返された決裁は、びっしり赤鉛筆で添削された、まるで通信教育の教材のようになっているのだった。

 これはへこんだ。でも、無傷で押印してもらえる人は少なく、その局長は、「昔、職員研修の担当だったから、今でもその仕事ぶりが抜けないのだ」と陰口をたたかれていた。

 でも、その歳に自分もなると、結構、同じことをしている。神は細部に宿るとか言いながら。

 

 それから、土日に一人で職場にでてきて、まとめて決裁をみる局長もいた。そして、おかしいと思った決裁には、週明け、順番に、所属長を呼びつけて絶対に何が気に入らないか言わず、ただ「これでいいの?」と聞く。いいと思いますといわれると、「本当に?」と繰りかえす。そのうち、その所属長は、いえ、ちょっと問題があると思いますと引き下がり、再チャレンジに挑む。

 なぜ、土日かといえば平日は飲みに行くのが仕事だから。なぜ答えを言わないのか。答えをいったら自分たちで考えなくなるから。

 

 最後の局長は、電卓と法令を必ず机に置いて、決裁に誤りがないか、丁寧にチェックする人。何もなければ静かに判を押して返す。

 局長まで行く決裁は、そんな電卓をたたくようなところが間違ったままのはずはない。決裁に時間もかかるし、手間だろうと「そのあたりのチェックは、僕らがきちんとやりますから」と言ったことがある。それに対し

 「以前、僕がいいかげんに決裁した結果、誤った決裁をそのまま実行させてしまった。事件になって、起案した担当者の人生を大きく狂わせてしまった」

 上司の決裁の仕方1つで、人も組織も、元気にもなれば、病みもする。

立つ鳥跡を大いに濁す

 役所というのは3年ぐらいで異動になる。だから、自分の異動周期に合わせて仕事をしがちだ。

 管理職になり、優秀な人の後に配属されると、「当面の懸案は全部済ませといたからね。後は好きにやって」と言われることがある。

 決して課題がないというわけではない。「次の人には自分のせいで負担はかけられない。自分にできることは全部やった」ということなのだ。

 

 確かに、仕事を引き継いで、まったく整理もされず手つかずの書類が山積みになっていると腹がたつ。でも、それ以上に困るのは、新人で配属されて課題を把握できず何をしていいかもわからないことだ。仕事を託しておいてもらった方が自分の仕事が明確でやりやすい。

 

 もう一つ、なによりも自分の配属期間で完結しよう、自分の代では問題を起こさないようにしようとすると現状改善型になるし、自分にできる以上の仕事をしなくなる。もっと長期に、組織全体ですべき大きな仕事があるかもしれない。

 

 そんな思いがあり、立つ鳥、跡を大いに濁すことを信条にすることにした。

起承転結のどこが自分の仕事だって、そこをがんばるだけ。たまたま果実を収穫できればラッキーだけど、花が咲く瞬間を見られなくても種を植えたり、水を撒いたりする人が絶対必要。

 サッカーだって、じっと、キックオフもしないまま引き継ぐなんて、ありえない。ボールを蹴るからこそ試合は始まる。

 

 とはいえ、ややこしいことを押しつけやがって、無責任な奴だって、結構、恨まれているのだろうなあ。

 そんな4月が、また来る。

公務員の常識は世間の非常識

 

 

 公務員は、採用されたときが一番優秀で、だんだん質が悪くなっていく

街づくりに一生懸命取り組む人から言われた言葉だ

 難しい学力試験を突破し何度も面接を受けて採用されたのだから優秀であるのに間違いない。でも、採用されたら、役所の理屈やルールに染まっておかしくなる。

 

 市民が街角を掃除していても、見ているだけ、お礼も言わない、まして手伝おうともしない。それが当たり前だと思うようになる。

 管理協定で取決めたから管理費払っているからとか、そんな役所の理屈より、目の前におったら、普通、塵取りの1つもとってこようと思わんか。

隣人に醤油借りたら、新しいものを買って返すのが世間の常識なんやで。

 

役所にいると法律や条例に従ってすることを求められる。でも、ルールを破ると後任や他の所属が困るから前例以上のことはしないなどは、自分たちが都合よく仕事をするためのルールに過ぎない。ルールに従って仕事をすることが楽だということを学習し、いつしか、そのフレームの中に閉じこもる。

 法律も要綱も実は先人が問題を解決するために苦労してがんばったことを後輩たちにも引き継ごうという崇高なものだったはずなのに。

 

 それは決まりですということを常識の量りで一旦考えてみる。

 震災の時、平等とか、ルールとかで目の前のことは決して解決しなかった。

この避難所には赤ちゃんが多い、そっちは大人、あっちは老人。でも、均一におむつ、毛布、服等が配られてくる。

「こっちはおむつが余っている、そっちは下着があまっている、じゃあ交換しよう」と、別の避難所と直接取引をし始めたのは、一担当者だった。僕には考えも及ばなかった。

自分にやるべきこと、自分にできることをする、その尺度は常識だ。決まっていることが常に正しいと思うなかれ。