My役所ライフ

役所生活30数年のエピソードを通じて、役所でのちょっとした仕事のコツや活き活きと働くヒントを紹介します!

犬棒ライフのすすめ

 とある卒業祝賀会の祝辞です。

 

 これから社会に巣立つ皆さんは、大志を抱き、さあ頑張るぞと意気込んでいるに違いありません。

 でも、長丁場、ずっと、頑張り続けることなんか、できません。だからといって、社会がなんたるかもわかっていないあなたが取捨選択して、あるべき論の成長プランを作ったところで的が外れていること間違いありません。それは、見えない壁を作り、自分の可能性を壁の中に拘束することにもなります。

 

 ひとつ、お勧めする生き方があります。犬棒ライフです。

犬も歩けば棒にあたるように、人も歩けば人にあたる。物事にもぶつかる。叩かれたり、トラブルになったりすることもあります。

 でも、人に当たれば縁ができます。物事にぶつかれば経験になります。偶然に身を任せることで、自分の価値前提では絶対得られない、人や物事とも出会い、気が付けば人脈、知恵やノウハウになっています。

 

 もちろん、本当に悪い人やリスクの大きい物事は避けるべきですが、危険がありそうだとわかれば、避けようとするし、転んでも手をつくものです。

 そして、親はいつだって親であり、最強の応援団として助けるでしょう。

 歩く前から転ぶ心配はしないことです。

 

 だから、いろいろなところをふらふらドリフトして隙のある生き方をしましょう。そして棒にあたりましょう。

 その偶然の機会を大切に、そして楽しみましょう。

 

 

―  次男がこのたび大学を卒業 ―

社会人として独り立ちするにあたり、どんな励ましの言葉を贈ったらいいのでしょうか

皆さんは、卒業する自分の子どもにどんな言葉を贈りますか。

決裁を見る大切さ

 

 

 局長さんなど偉い人に決裁(稟議書)をもらいに行くのはドキドキするものだ。そして、ご苦労さんなどといわれると、ほっとして、ちょっと達成感を感じる。

 

 新人の頃、一件あたり数千万円の支出決裁をいくつか持って局長室に行った時のこと。

「○○の件で、ご決裁をいただきに参りました」

「ああ○○か。ご苦労さん。済まんが、この印鑑使って、そこのテーブルで押して」

「ご覧にならなくていいのですか」と思わず問いなおしたところ、

「きちんとやってくれてるんやろ。俺はみてもわからんから」

 邪魔くさがられている訳ではなく、親分が子分に任せたという感じで、その時は「かっこいい!」と思った。

 

 一方、その後に仕えた局長は、決裁を見たとたん、赤鉛筆を持ち出して、「この文章は、ここで句点を打った方がいいですね。ここは主語をきちんと書かないと分かりにくいです。それから、ここは時制の一致に気を付けて過去形にしましょう」などと、説明しながら、決裁文を修正していく。

「はい、今度から気を付けてください」と返された決裁は、びっしり赤鉛筆で添削された、まるで通信教育の教材のようになっているのだった。

 これはへこんだ。でも、無傷で押印してもらえる人は少なく、その局長は、「昔、職員研修の担当だったから、今でもその仕事ぶりが抜けないのだ」と陰口をたたかれていた。

 でも、その歳に自分もなると、結構、同じことをしている。神は細部に宿るとか言いながら。

 

 それから、土日に一人で職場にでてきて、まとめて決裁をみる局長もいた。そして、おかしいと思った決裁には、週明け、順番に、所属長を呼びつけて絶対に何が気に入らないか言わず、ただ「これでいいの?」と聞く。いいと思いますといわれると、「本当に?」と繰りかえす。そのうち、その所属長は、いえ、ちょっと問題があると思いますと引き下がり、再チャレンジに挑む。

 なぜ、土日かといえば平日は飲みに行くのが仕事だから。なぜ答えを言わないのか。答えをいったら自分たちで考えなくなるから。

 

 最後の局長は、電卓と法令を必ず机に置いて、決裁に誤りがないか、丁寧にチェックする人。何もなければ静かに判を押して返す。

 局長まで行く決裁は、そんな電卓をたたくようなところが間違ったままのはずはない。決裁に時間もかかるし、手間だろうと「そのあたりのチェックは、僕らがきちんとやりますから」と言ったことがある。それに対し

 「以前、僕がいいかげんに決裁した結果、誤った決裁をそのまま実行させてしまった。事件になって、起案した担当者の人生を大きく狂わせてしまった」

 上司の決裁の仕方1つで、人も組織も、元気にもなれば、病みもする。

立つ鳥跡を大いに濁す

 役所というのは3年ぐらいで異動になる。だから、自分の異動周期に合わせて仕事をしがちだ。

 管理職になり、優秀な人の後に配属されると、「当面の懸案は全部済ませといたからね。後は好きにやって」と言われることがある。

 決して課題がないというわけではない。「次の人には自分のせいで負担はかけられない。自分にできることは全部やった」ということなのだ。

 

 確かに、仕事を引き継いで、まったく整理もされず手つかずの書類が山積みになっていると腹がたつ。でも、それ以上に困るのは、新人で配属されて課題を把握できず何をしていいかもわからないことだ。仕事を託しておいてもらった方が自分の仕事が明確でやりやすい。

 

 もう一つ、なによりも自分の配属期間で完結しよう、自分の代では問題を起こさないようにしようとすると現状改善型になるし、自分にできる以上の仕事をしなくなる。もっと長期に、組織全体ですべき大きな仕事があるかもしれない。

 

 そんな思いがあり、立つ鳥、跡を大いに濁すことを信条にすることにした。

起承転結のどこが自分の仕事だって、そこをがんばるだけ。たまたま果実を収穫できればラッキーだけど、花が咲く瞬間を見られなくても種を植えたり、水を撒いたりする人が絶対必要。

 サッカーだって、じっと、キックオフもしないまま引き継ぐなんて、ありえない。ボールを蹴るからこそ試合は始まる。

 

 とはいえ、ややこしいことを押しつけやがって、無責任な奴だって、結構、恨まれているのだろうなあ。

 そんな4月が、また来る。

公務員の常識は世間の非常識

 

 

 公務員は、採用されたときが一番優秀で、だんだん質が悪くなっていく

街づくりに一生懸命取り組む人から言われた言葉だ

 難しい学力試験を突破し何度も面接を受けて採用されたのだから優秀であるのに間違いない。でも、採用されたら、役所の理屈やルールに染まっておかしくなる。

 

 市民が街角を掃除していても、見ているだけ、お礼も言わない、まして手伝おうともしない。それが当たり前だと思うようになる。

 管理協定で取決めたから管理費払っているからとか、そんな役所の理屈より、目の前におったら、普通、塵取りの1つもとってこようと思わんか。

隣人に醤油借りたら、新しいものを買って返すのが世間の常識なんやで。

 

役所にいると法律や条例に従ってすることを求められる。でも、ルールを破ると後任や他の所属が困るから前例以上のことはしないなどは、自分たちが都合よく仕事をするためのルールに過ぎない。ルールに従って仕事をすることが楽だということを学習し、いつしか、そのフレームの中に閉じこもる。

 法律も要綱も実は先人が問題を解決するために苦労してがんばったことを後輩たちにも引き継ごうという崇高なものだったはずなのに。

 

 それは決まりですということを常識の量りで一旦考えてみる。

 震災の時、平等とか、ルールとかで目の前のことは決して解決しなかった。

この避難所には赤ちゃんが多い、そっちは大人、あっちは老人。でも、均一におむつ、毛布、服等が配られてくる。

「こっちはおむつが余っている、そっちは下着があまっている、じゃあ交換しよう」と、別の避難所と直接取引をし始めたのは、一担当者だった。僕には考えも及ばなかった。

自分にやるべきこと、自分にできることをする、その尺度は常識だ。決まっていることが常に正しいと思うなかれ。

かじ取りは早めにちょっとがかっこいい

 市役所は旧態依然としていて、何も変わろうとしないといわれますが、役所の人間は真面目なので、実は何とか時代に合わせようとずっともがいています。

 

 でも、市役所のような大きな組織は、大きな船のようなもの。慣性の法則がある中、大きな船のかじ取りに、急旋回はご法度多くの乗組員がいて、多くの乗客(市民)もいる。急旋回では、様々な部署につく乗組員も十分、対応できないまま混乱し、乗客はパニックに陥り、最悪、船が沈没してしまう。

 

 神戸大学三品和広教授は、戦略として何かを変えるということは実は10年のスパンで考えることだとデータに基づいて指摘しています。今日の勝ちをめざした安易な戦術は、だいたい失敗すると。

 

 そして、戦略の本質は、そうした時代の変化‘機‘を読み取る人材を育成し、登用していくことだとおっしゃっています。ちなみに、この本は、ちくま新書の「経営戦略を問いなおす」というものです。好きな本です。

 

 もちろん地方自治といえども、大きな時代の変化に適切に対応する必要がある。

 だから潮目を見極め、早めにちょこっと舵をきって、乗客の気が付かないままに次の方向に向かう。

 ほんとうのかっこいいリーダーってそういうものかも知れません。

役所の広報の大きな勘違い

 役所のだすパンフレットは、とにかく細かくダラダラ長く、何が言いたいのかわからないといわれていたが、最近、すごく工夫がされるようになってきた。

 あれも書ななきゃ、これも書かなきゃと言い訳のために書いていたのだが、デザインやアイキャッチ重視で、「詳細はHPをご覧ください」といった形に委ね、かなり洗練されてきたと思う。

 しかし、そのパンフレットの行く末はどうかというと、結構、誰も見ない棚(、ひどいときには倉庫)に山積みになり、賞味期限切れで廃棄されることも少なくない。

 

 役所は、市政記者クラブがあったり、市民が多く訪れる出先事務所などに予めパンフレット置き場があったりで、配ることに苦労しない。そこで、パンフを配ることに気を回す必要がない。

 役所の人間は真面目で、最高のパンフレットを作ることを最高のミッションとがんばるのだが、誰に、どこで配ってどんな風に使うのかという営業の視点が欠けがちになる。若者相手の広報だったら、役場の市政案内コーナーにパンフを置いてもまったく意味がない。

 

 民間の広報や営業の人は、パンフを作ることを目的にするのではなく、どれだけ多くの人に知ってもらうのかを考え、その手段としてパンフを作る。パンフレットは、あくまでもマスコミを回ったり、ターゲットを直接訪問したりするための道具だ。

 

 大事なことは、誰に伝えたいか、彼らにリーチする手段は何か、そのうえで、どんな風に中身を作るかを考える徹底したマーケットインの思考。

 どんな素晴らしい名画を完成させても、誰も見ることのできない密室に展示するなら、意味はないのだから。

 

 今回は、ちょっと真面目に今、悩んでいくことを書いてみた。

交渉は自分の主張をどれだけ通すか?

「交渉事とは、勝ちきらず、自分の主義としては、双方、納得がいくように、51対49のラインを探すのだ」と教えられたことがある。

正しいことをやろうとしているのだから、100対0だっていいはずだが、その人のいうには、「相手には相手なりの正義があるし立場があるから、絶対こっちが正しいとは限らない」、 さらに、誰かが「それは自分のいうことが正しい、あなたの言うことは聞けません」と突っぱねて話を付けたと思っていても、だいたいは別の誰かが見えないところで、とばっちりを受けて、事態を収拾するために汗をかいているものだ」という。

 だから、「交渉事を一方的に進めて自慢顔をしている奴には腹が立ってしょうがない」。

 

 その上司は、そうした場合に、その相手から泣き付かれ、問題が表面化しないように陰で事態収拾に苦労する人だった。自分の直接の仕事でもないもめごとで、相手の市民に事情を説明するため、玄関先で帰りを待ちつづけていた。

 一方、相手のいうことを何でも聞き入れる人間を「役所のお金で自分がいい恰好をする奴は最低だ」という人でもあった。

 

 最近では、役所といえども、仕事において、結果をだす、都市間競に勝つ、スピード感を持つ、など、51対49の理屈が相容れない風潮になっている。

 しかし、アメリカ流MBAの交渉術においてさえ、いかにWin-Winとするかが交渉の目的であるとすることを考えても、この上司が経験から導いた、1%のこだわりの実践は、やっぱり凄いのである。